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あったこと、感じたこと、考えたこと

ここはどこ、私は誰。君は何、僕はどこにいくの。あるいは全ては実用の為に。

いかにして人間は老害化するか、あるいはwikpediaのような心になるために。

 

 

人間長く生きていれば当然自分のバージョンと現実のバージョンが食い違ってくることは自然なことだと思う。その連中の中で、自己の見解の正しさを信じて疑わず、それが社会的に邪魔な存在として認定された存在を一般的に「老害」って僕らは呼ぶ。ちなみにグーグル先生は以下のように老害を定義している。

 

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ただ、老害って別に必ずしも年老いた連中に対してだけに使われる言葉じゃないよね。若くてもなんか頭が固くて自分の正しさを盲目に信じて疑わない人も僕は老害だと考える。

 

まぁ、全く珍しい存在ではないよね。ちょっと周りを見渡せば、

・サークルの下の代の方針にあれこれ口出しする先輩

・面白くないけど幅を利かせている大物芸人

・昔のやり方に固執する年寄り上司

 

etc・・・・

 

とかあげればいくらでもあがるよね。こんな感じで老害っていう存在はかなり一般的な存在だと感じる。

ここで、ちょっと例を挙げたものを帰納して僕なりの「老害」の定義を与えるとすれば、

 

「自己の内的確信と現実世界が食い違っているにも関わらず、それを否定する、もしくは無関心を貫き、自分の「確信」に固執する存在」

 

っていうことになると思う。

ここでいう「確信」っていうのは自分が世界に対してもっている「正しさの確信」のこと。

 

・人生の意味は愛である

・人類は自己の成長の完成を目指すことだ

・人類は本来平等であるのだ

・料理をみればその料理人の人生が見える

・個人個人を尊重するべきだ

・仕事は自分の為ではなく、他者の為にあるものだ 

 

みたいな。ね。その人にとって、その人が自分自身の経験と考察から生み出した「正しさ」、それがここでいっている「確信」の意味だ。

で、僕はまさにこの「確信」こそが老害老害たらしめている一大要素な気がしてならない。

 

じゃあ、その「確信」がどのようなプロセスで老害という現象に物象化されるのかをこれから説明するね。(物象化っていうのは、ある見えないものが、現実の形を帯びて目の前に現れる、みたいな理解をしてれればいいですよ。労働が物象化するとお金に変わる、みたいなね)

 

じゃあまず、僕らがどのように「確信」を構築するのかっていうプロセスから説明するね。

 

Q,僕らはどのように自分自身の「確信」を構築するのか

A,現実と自分自身とのフィードバック関係によってである。

 

僕らが何から「確信」を構築するかっていうと、それは経験からのみである。

それは外的経験でも内的経験でもいい。どっちかっていえば外的経験の方が効果は強いように思うけど。

で、その経験てどこから手に入るかというと、自分が世界に働きかける(=行為する)ことを通して得られるものである、と定義することが出来る。

 

・うんこは机の上にすると怒られる

・一度ならったことは復習するとより身に付く

・人を殴ると相手は怒る可能性が高い

 

みたいなね。それから人はそれらの対応の中で頻度が高く散見されるもっとも適切そうな対応を「確信」として構築することになる。うんこはトイレでするようにするし、復習の大事さに気づくし、他人とは出来るだけ平和に接するように学習する。

 

図にすると以下のような感じかな、

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まず、

①で自分は行為を行う事によって「現実」のリアクションを確認する。例えばテーブルにうんこをしてみる。

②で「父親から殴られる」というフィードバックを「経験」として現実から受け取る。

③なぜ自分は殴られたのかという「経験」を現実と鑑みて検証し、「よし次はベッドでうんこしよう!」と①の行為に戻る。

 

これを繰り返す中で、あるときからフィードバックで帰ってくる「経験」がほとんど変化しない状態が現れる。そして、それが「正しさ」として「確信」となってその人の中に蓄積する、ということが確信の構築の仕組みだと思う。

さっきの図に書き加えるなら以下のようになるだろう。

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よく巷でみかけるPDCAサイクルっていう概念と、ほとんど一緒だと思う。ただし、「確信」構築プロセスは大抵の場合無意識に行われるけど、PDCAは意識的に改善を行う際にもいられるという点で違いがあるということもできる。

 

じゃあ次にこのように手にした「確信」がどのようなプロセスで「老害」と認識されるのかを見ていく。分かりやすくするために、典型的な症例である老人と若者の図からこのプロセスを考えていく。

 

 

 その前にひとつ前提とてお話したいことがある。

さっき説明したとおり、「確信」は自分自身と現実のフィードバック関係、もしくは自分と現実のインタラクションの結果として、「経験」を通して獲得されるってことにしたよね。それって凄く単純化すると以下のような図に表される。

 

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これって要するになにを言いたいのかって言うと、「確信はその時の現実から自分が選択した適切そうなもの」っていうことであり、これって要するに自分よりも先に現実があり、そこから自分が選び取ったっていう明確な順序関係があるんだ。

 

①現実がある

②自分はそこから適切そうなものを選びとった

 

というね。

じゃあちょっとこれをふまえて、お話を老人と若者の老害対立図に戻そう。

この2者が存在する間での老害の構造をシンプルに図にすると下のようになる。

 

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簡単に説明すると、老人は「過去の現実」とのインタラクションによって自分の確信を構築して、若者は「現在の現実」を元にして自分の確信を形作るっている。そのとき、老人は自分の持っている確信の形式と現在の確信の形式が異なるから、年長者の立場を利用した反応として、disを表明する。

 

典型的な「最近の若者はダメになった。それに世界もドンドン悪くなっている」となげくおじさんが若者と世界をdisっている図である。よく見かける光景だなと思う。こんな直接言わることは少ないかもだけれど。

 

でね、もうわかると思うんだけど、これがまさに

「自己の内的確信と現実世界が食い違っているにも関わらず、それを否定する、もしくは無関心を貫き、自分の「確信」に固執する存在」

としての老害であり、このようなプロセスによって生じる現象であるといえる。

 

じゃあ一つ考えなきゃいけないのは、この老害のdisっていうのは正当性を持つんですか?っていう点だと思う。それがもし正当性を持つなら、その意見を聞き入れたっていいじゃないの。

 

まぁもちろんそんな正当性は僕にはないように思うんだけどね。それはなんでかっていうとね、さっきの図をもう一度しようするけど、老人も若者も、どちらも「その時の現実」を元に確信を構築しているわけ。

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だ・か・ら、どちらも「そのときの現実」から自分の「確信」を構築したのだから、老人が自分の「過去の現実」を元につくった「確信」の尺度で「現在の現実」ないし、それから「確信」を導きだした若者をdisれるいわれはないわけ。

 

つまり、

①現実が先にある

②「確信」は現実から導きだされる

 

のだから、「過去の現実」より「現在の現実」は「いつも正しい」のであり、

そこから解釈された現在の「確信」の方が「正しい」のである。

 

 

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ただね、悲しいかな、最も厄介な老害っていうのは凄く真面目で勉強熱心な人が多いような気がする。それはおそらく、よく学習する人間程自分なりの「確信」をより強固に備えてしまうからだ。あの、学生運動を主導した連中もそうだったんでしょう。それに主張自体も完全に間違っていることはほとんどない。一部に真理を携えているから、その人が「間違っている」と糾弾することはできない。でもどこか古くさくて、カビの生えたような主張に聞こえてしまう。昨今日本企業の凋落が激しいが、一部に「この人々」が大きな影響を与えているように思う。生涯雇用という制度と相まって、「カビの生えた賢人」を意思決定の場に据えてしまったからだ。

 

ただし、今日の自由競争の社会において老害という存在がいる余地は多いに少なくなったように思われる。社会自体にお荷物を置いておく余裕が無くなってしまった。ただし、それと同時に矛盾するようだが老害化するのが極めて早い社会にもなってしまった。それはインターネットが代表するような通信技術の発達であり、時代が高速で進むようになってしまったからである。その中で「過去の確信」にとらわれる人は急激なスピードで「老害化」してしまうだろう。

 

これは僕の私見だが、これからの時代「閉じながら開く」という矛盾したスタンスを個々人が確立する必要に迫られると思う。

 

それは「情報を収集し、まとめる(確信をつくる)」、「あらたな事象の確認とともに「確信」を書き換える」ということだ。

 

これって極めてWikipedia的な心の持ちようだと思う。

この心を持つには、まず現象を捉える必要がある。そこに解釈を付け加えない。

かのダニエルカーネマンもいっていた通り。人間には直感的判断としてのシステム1と熟慮の上での判断のシステム2が存在しているが、これはどちらかといえばシステム2に近い。

まぁ実際にはちょっと違うんだけど、要するに、まずは現象出来事をしっかりと見るところから始めようぜって考え方だ。人間、意識しないとシステム1のように出来事と解釈を勝手に結びつけがちになってしまう。

でもそれだと「過去の確信」にもとづいた判断しか出来なくなってしまうリスクがある。だから、まずは現象をしっかりと観察して、そこでどのような構造を持つのか、結果が得られたのかを認識し、そこから得られる「新しい確信」を模索する必要がある。そして、発見した新しい確信をもとに、「新しい人生を始める必要がある」

 

現実はいつもそこにあるだけだ。間違っている間違っていないていうお話じゃない。

新しいものは全てそうあるだけなのだ。それが間違っているか間違っていないかのお話じゃない。

 

 

いい加減書くのに疲れましたが、

 

僕、今まで確信という言葉を随分ネガティブな文脈で使って来たから悪いように思われるかもしれないけど、そんなことないです。寧ろ「確信」は自分が自分の人生を生きる上で極めて重要なファクターだと理解している。人生は幸か不幸か自分自身で意味付けを行っていく必要があるので、確信はその土台となってくれる大切で愛おしいものだ。

 

だけど一点留意点があるとすれば、これからの時代、その土台を崩す必要に迫られるかもしれないということだ。しかもかなりのペースでね。

 

 

うぃ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閉じる事と開く事を両立しないといけない。

もしくは、まとめることと付け加えることを同時に行わなければならない。