あったこと、感じたこと、考えたこと

ここはどこ、私は誰。君は何、僕はどこにいくの。あるいは全ては実用の為に。

自分をいかにして伸ばすか。あるいは、トップダウンかボトムアップか

ブログというのは難しい。

僕みたいな飽き性の人間には、「今、書きたい」という思いが生じた瞬間に書き上げないとすぐに書く気をなくてしまうんだ。

 

だから今も「書きたい」という意思が少し出てきたからこうやってはてなブログを久しぶりに開いてみたわけだ。

 

さて、このブログが日の目を見ることはあるのだろうか。

 

さて、本題。

 

最近私は自分をどのように成長させて行くべきか悩んでいた。

1)自分の理想とする像から演繹する方法

2)自分の素性に合わせボトムアップ式で伸ばしてく方法

 

私は無意識に1)を選択してたのだが、思い返せばそれってあまり筋のいい方法じゃなさそうだなと思えてきた。

確かに1)は自分の憧れる像に向かって直進して行くもので、それ自体はすごく有効そう。だけど、その理想像になった際にそれは

 

結論から言うと、「自分の素性にあった中で理想像を見つけ、それを伸ばして行くべきである」と言うのが僕の主張。単にこれかっこよさそう、憧れるを目標とすると一時の青春としては楽しい物語だが、現実としてそれはあまり幸福ではなさそう。なぜなら、自分の素性を考慮に入れない理想像はかなりの確率でその理想像には到達しないから。

だから、我々のやるべきことは、

 

1)自分の素性を知る。

  ・自分の性格は?(ADHD気味か?)

  ・自分が何に楽しいと思うか。

  ・認知特性はどうだろう?(視覚優位か?言語優位か?)

  ・体力はあるか?

  ・ストレスに強いか?

  ・コミュニケーションを問題なく取れるか?

  ・etc

2)自分の素性を伸ばしていった極地には誰がいるだろうか想像する。

  ・自分の得意なことを究極まで極めたらどう言う状態だろう?

  ・自分が究極まで楽しいと思えることは何だろう。

  ・自分の行動と心を一致させながら仕事をするにはどうしたら良いだろうか?

 

なのだ。

残念ながら、今の僕はどれもできていない。非常にだらしがない。惰性で仕事をしている状態だ。俺は、こんな自分が嫌だ。絶対に嫌だ。

だから変わろう。

また、心と行動が一致する状態を目指して。

 

 

コラムADHD

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内省的な思考と外部の情報を処理する思考は対極にある。内省的な思考は自分の過去の体験、感情を思い起こしながら現場とのヒモ付きを見つけて行く作業だが、処理の思考は現実の状態をフォーマットに矯正して行くイメージだ。

内省的な思考は現実の再定義にほど近い。ある概念に対して関連する事実、経験を記憶から掘り返し、そこから新たにその概念が意味することを再構築するのだ。多分、独自の考えを持つ人はこの再構築を日常で常に行っている。

じゃあ、この日常の再定義を精度よく行うにはどうしたらいいだろう。これは、①こういう状況下で②どういう問題が生じて③それに対する解決策はこうで④その結果その問題は解決した/しない⑤「しない」場合その原因には以下が考えられる。

を毎日検証する必要がある。正直最近サボっていた気がする。

状態、やったこと、効果の3点を常に整理する習慣をつけないといけない。

僕は人よりも頭の回転が遅いのだから、そういう状況とインプットとアウトプットの3点の関係をうまく抽象化した「精度の良いフレームワーク」を作る必要がある。でも、それって大学時代と結局一緒だね。

私は認識で勝負するしかないのに、自力で勝負を仕掛けようとするのは愚の骨頂だよな。

 

※僕にとって重要な課題は、

①再構築する時間をいつ取るのか。

②再構築をどのような形式で行うか。

の2点である。

①に関するアンサーは「就労後」もしくは「早朝」である。

②に関しては、日々の日報で。また一週間に一度はこうしてブログに整理してアップする方が良いだろう。

ああ、思う存分書くのは気持ちがいいなぁ。

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※コラムADHDとは

ADHD気味の筆者の頭は常に情報が飛び回っている。

なので、突然脈絡のない情報が頭を想起する。そしてそれを成仏させないと話を先に進められないのである。コラムADHDは筆者の思考の寄り道を文章化したものである。

いい仕事

「とにかくいい仕事をすることに集中してほしい。」

 

私が数ヶ月前、副社長に言われた言葉だ。

 

この言葉を聞いたとき、なんだこんなこと当たり前じゃないかと思ったし適当に聞き流していた。

 

だが、最近になってこの言葉の意味を噛み締める機会が続いている。

 

いい仕事とはなんだろう。

 

・費用対効果が高い仕事

・自分が満足できる仕事

・他社から認められる仕事

・会社や社会にインパクトをもたらす仕事

 

いろいろ見解はあるだろう。

 

だけど、私にとっていい仕事は、それが私自身であると胸をはって主張できる仕事のことだと思う。

上記であげたものも、それぞれ要素として入っているが、

その仕事が、私が今ここに生きている理由、自分を肯定できる理由、自分が何者であるかを他者に説明できるものであると思っている。

 

その意味で言えば、私は全然いい仕事ができていない。それは今までの人生の中でもそうだ。

もちろん、他人よりも努力できた部分はあったが、だせた結果は人並みのものだ。そう単にボトムが低かったというだけのことなのだ。

 

私は、全然いい仕事ができていない。

私は、自分の存在理由がそこにあるような仕事がしたい。私は自分の命に価値があると納得したい。

私は、今の自分に納得できない。満足できない。

私は、自分自身を肯定したい。

 

だから、私はいい仕事をできるようになるしかない。

 

いい仕事の条件ってなんなんだろう。実は、今まで自分のアウトプットが他人に評価されたことは、僕の人生の中でないのかもしれない。

 

僕の今までの人生ってなんだったのか、私の存在って何の意味があったのか。

今までの自分を越境するのが自分自身だろう!!

 

まったく、ブログとしてまったく体をなしていないな。

 

でもいいんだ。普段封殺される感情をこの場で吐き出せばいい。

 

いい仕事は結果にこだわる仕事だろう。

結果を出すにはプロセスを徹底的にこだわる必要がある。

そしてプロセスをひとつひとつ完璧にやり終える必要がある。

 

私の仕事を完璧にやり終えるのに必要なのが、他人の力だ。認識だ。

自分ひとりでは全てのことをやりきるのにまったく何も足りない。だから人は協力するのだ。だが、あくまで仕事の主体は自分だ。

 

自分が、他人を使って品質を保障するのだ。

いい仕事の用件

・明確なゴールがある。

・確実にゴールを達成可能なプロセスがある。

・プロセスの炊く用を完璧に達成する。

 

シンプルだ。この世界に、絶対とか完璧とかそんなものは存在しない。しっている。しっているが、

 

究極を目指し続けるのが人間というものだ。現実を告げるのは結果だ。

そして結果は、何かを目指したあとにしかわからない。

 

私は究極の結果を目指しているだろうか。

 

私は仕事のひとつひとつに究極の魂、をこめることを望む。

 

人に嘲笑される?馬鹿にされる?そんなことも分からないのと軽蔑される?

 

だからなんだ?

 

それと、私がいい仕事するのと何の関係があるんだ?

私が将来的に与える周りへの影響と何の関係があるんだ?

 

一ミリも関係ない。

何も関係ない。

 

私はただ、いい仕事をすることのみを追求する。

いつか、私が自分の命に意味があったと思える日まで。

 

 

 

 

プロジェクトを進める上でのご注意 あるいは、理想不在のプロジェクトはどこにいく

仕事人になりました。

プロジェクトは難しい、というか、仕事は本当に難しい。

 

私は現在コンサルタントとして担当プロジェクトの推進を行っているが、

プロジェクトを進めるにあたり、常に以下の4つのことを整理して進めるべきだなぁと思っている。

 

①ゴール定義

②あるべき、理想の姿

③制約

④現実の姿

 

①ゴールの定義

ゴールは常に数値的に、もしくは達成できたかできていないかをyes/noで答えられるようなものに設定する必要がある。ゴールは我々が仕事をする上で常に立ち帰るべき場所であり、宝物なのだ。

それは我々にとって、ベストであり、最善であり、美しいものであるべきなのだ。

 

②理想の工程

ゴールを達成する最短距離の方法である。

よく「論理的には」とか「正しくは」とかいって表現されるものだ。

 

③制約

無限のリソースがない我々にはきっても切り離せないものだ。

制約とは以下がある。

・時間

・人

・金

・物

※余談だが、制約は実は全て時間に収斂される。無限の時間を仮定すれば、人間は1人でも自身が達成したいことを多くこなせることだろう。例えば、大規模システムもピラミッド建設も、無限の時間があれば一人で作りきれるはずだ。だが、現に我々には無限の時間は用意されていない。人生は多くて100年、納期なんてほんの目の前じゃないか。

だから我々は現実の制約を考えないといけない。

 

④現実の姿

あるべき姿、あるべき工程を制約を元につくり直したのが現実の姿、工程だ。

我々にとってはすっかり見慣れた、「現実的な案」だ。

この理想論に制約を加えて現実論に作り変える際に考える原点にとなるのは、費用対効果という概念だ。費用対効果の概念を用いる際に問うべきことは、「我々はこのインプットからこのアウトプットを得るが、それが短期的/長期的に考えたときに採算にあうか?」ということだ。

現実での問いとしては、「理想論通りにやった際と、現実論での場合とでこの費用対効果の比率どのようなものになるか。」というものになる。

※この費用対効果の部分の「効果」を単純に金、と捉えてしまうのは間違いだ。現実には、社内の意識の高まりや、社外へのスピルオーバー的な効果の波及などさまざまな効果を得ることが期待できる。(もちろん逆もしかり)価値については、またいつかまとめたい。

 

話にもどると、現実のプロジェクトでは理想論と現実論を常にいったりきたりする必要がある。プロジェクトが進み、仕事が忙しくなるとつい目の前のことに追われることになり、現実論を実現することが目的化しがちだ。

だが、それはあくまで「妥協論」なのであって、我々が本来実現しようとしていること、それを達成するのに最適な方法を考えるのをやめたり、忘れたりしてはいけない。

 

先日私も会社のパートナーに同じことを言われ、大変反省させられた。

 

※雑記事を書いてしまった。正直この記事の品質は4点。

まぁ最初から100点などできないし、少しずつ改善していこう。

 

 

成長は何か?それはすなわち環境への適応である。

最初から題名で結論をいってしまいましたが、つまりそういうことです。

 

僕らが日々「成長」と呼んでいるのは、環境への適応にほかなりません。

 

例えばマックで働いているバイトが感じる「成長」とは、

 

・レジが早く打てるようになった

ハンバーガーが素早く丁寧に作れるようになった

・お客さんに喜ばれる接客が出来るようになった

・バイト内でリーダーシップを発揮出来るようになった...etc..

 

あるわけですよ。

たしかにこれって何かを上手く出来るようになったから「成長」なんだけど、その実この「成長」ってなんなのか?

 

これはね、「環境の要請」に対する適応なんですよ。

つまり、

・レジが早く打てるように「要請」されたから、それが出来るように「成長した」

ハンバーガーが素早く丁寧に作れるよう「要請された」から、それが出来るように「成長」した

・お客さんに喜ばれる接客が出来るようになるよう「要請された」から、それが出来るようになった

・バイト内でリーダーシップを発揮出来るようになるように「要請されたから」...etc..

 

ね?

じゃあ僕らはその要請に従う必要があるのか?それは、その要請をこなす事が、その環境にいる条件だからだ。言い換えると、その要請をこなさなければ、その環境では「生き残れないから」ですよ。仕事で使えない奴、みんな嫌いでしょ?

 

環境からの要件に答えることによってその環境での生存を許可される。だから、その要件に答えるように自己を環境に適応させていくことを、僕らは「成長」と呼ぶ。

 

 

っていうことは、適応すべき環境が過酷であればあるほど「成長」が大きくなるのは直感通りだよね。

 

当然、環境から要請されるものも大きくハードになるわけだから、それに適応するにはかなりの労力を必要とする。そして、適応の過程で「成長」する。

 

実はこの原理って進化論の自然選択説にのっとったものだ。

自然選択説っていうのは、環境に適応した遺伝子(生存に適した遺伝子)のみが生き残り、子孫を残す。そしてその適応に適した遺伝子が強化される形で後々の後継者に受け継がれる。

 

で、その中で面白いのが、進化、成長とは常に環境とのインタラクションの中でおこっていることだ。

 

例えば、ゴキブリを食べるネズミがいたとする。

ある時から、ネズミの環境への適応のスピードが早まり、より効率的にゴキブリをみつけ補食出来るようになったとする。すると、次におこるのは、ネズミに捕まりやすいゴキブリが全て補食され、ネズミに捕まりにくい遺伝子をもつゴキブリ(例えば空を飛べるようになるとか)の複製が始まる。

 

ここでは、一方の進化が、もう一方の進化を促進したという関係がある。

 

つまり、環境の変化にともなう自己の変化、という関係は人間世界でも自然でも一緒なのだ。

 

この世界は、本質的に自然選択的な空間だ。

 

ただ、その世界の中で注意しなければいけないのは、人工選択された存在になることだ。

 

つまり、家畜である。人間の手によってうまれ、人間の役に立つように特化した存在だ。これらの動物は当然このまま自然に話したら死滅する運命にあるだろう。

 

社会において自然とは市場だ

 

君は、自然とのインタラクションの中でいきているだろうか?それとも、家畜となっているだろうか?

 

僕らのいる世界は、家畜がいつ野放しにされても仕方が無い世界だと僕は思う。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

僕という存在は、結局のところ何なのか?あるいはその存在としての限界

こんにちは、

僕はマジでこじれた青年なので、やっぱり自分の存在って結局なんなのかって凄く意識が向きます。昔の方が向いていたけどね、特に大学1,2年なんかとかは最悪笑

最近は随分おとなしくなったと思いますけど。ちょっとした寂しさももちつつ。

でも今回は結局の所僕ってなんなんだってことを考えたので、ブログにまとめておくとします。誰も閲覧者のいないブログを書き続けるってちょっとした寂しさのようなものがありますが。宇宙の大空に、飛行機を飛ばしているみたいな気分です。

 

では本題、ってか結論なんだけど、

<僕は「行為」によって規定される。>

 

以上ですね。もういいやって方、ばいばい。

 

クソ一般的な感じになりましたね。でも考えたらこれしか出てこなかった。

僕とか、自分とか考えるときって、最初はこの苦しんだり喜んだり凹んだりしている自分を想定しがちだし(僕も最初はそうだったんだけど)それ自体が自己のように感じるんだけど、それって違うなって思うようになりました。

 

それらは結局の所、「生存の為の機能」です。はい

しってます、僕らがこんなにも命を感じる感情だって、もとはといえば生存の為の機能です。恐怖は危険を知らせます。喜びは仲間とのコミュニケーションに役立ちます。イライラは自分が「不利」な状況におかれていることを、同情は社会的動物としての人間に役立ちます。感情は「僕の生存の為のセンサー」です。それ以上でもそれ以外でもありません。

 

はい、この心もそうですけど、この身体もそうです。

肺も、心臓も、大腸も小腸も、細胞も免疫系も何もかも、「僕の生存の為の機能」です。「僕」という存在を成り立たせる為の存在です。

 

え、じゃあその集まりが人間ないし、「僕」の存在を規定しているのじゃないの?って思うよね。もちろんそれもそうだと思うんだよね。たださ、じゃあ、「僕」ってなんなんだよって話じゃないかな。

 

心臓には身体中に血を送るという「機能」によって規定されているよね。

肺は空気中から酸素を吸い取って二酸化炭素を吐き出すという「機能」によって規定されているよね。

大腸は?小腸は?感情は?

 

考えていくと、全てその「機能」によって規定されているわけ。

 

それじゃあ僕は????

心も身体も、それ自体が「僕」なのではなくただの「機能」なのだとしたら、「僕」とは??

 

もう一回結論に戻るね。

<僕は「行為」によって規定される>

ちょっと便宜上言い換えるね。

 

<僕は「機能」によって規定される>

 

この、最表面にいる「僕」。身体や心のセンサーを従属させている「僕」の機能は、規定されていない??

 

そう規定されていない。この「僕ら」に機能はついていないんだ。

じゃあ「規定されていない僕」って何なんだと。

 

なんなんだ。

 

無なのか?この僕は無でしかないのか?

 

 

いやいや、そんな事はない。ちょっと引っ掛けたけど僕らは既に「機能」を果たしている。「行為」といってもいいけどね。

 

僕は、マックのポテトSを購入して食べる事によって規定される。

僕は、痴漢をして捕まって3ヶ月拘留されること、によって規定される。

僕は、iphoneを作り上げ、世を大きく動かしたこと、によって規定される。

僕は、コップ一杯の水の中に指をいれることによって生じた波紋、によって規定される。

僕は、僕は、、、、、、

 

<僕は「行為」によって規定される>

 

言い換えると、

<自分は、自分の「行為」を通して見いだされた「機能」が、世界にどのような「変化」をもたらしたかによって規定される。>

 

僕は、人を3人殺した、ことによって規定される。(例示です)

 

僕の存在規定はこのようにしてなされる。

 

ゆえにね、ゆえにだよ。「考えてばかりいないで動け」ってんだ。

もちろん、もちろん、考えるっていうのも行為だよ。

 

ただね、知識や認識はそのままだと世界に「変化」をもたらすものではないんだ。

 

君が、もし自己規定に興味があるなら、君はその知識や認識を「行為」に反映させる必要がある。知識や認識は「行為」に従属されている必要がある。

 

知識や認識は、そのままでは何もないんだよ実は。

 

うん。そういうこと。

 

ただし、その「行為」を「機能」と認定するのは他人の仕事なの。

僕らはどんなに虚しくても他の人間の承認が必要なの。僕が、自己規定を行う為には他人の評価認識が必要。

 

これがどれだけ、虚しくても。

 

そしてこれが、人間の限界の一つ。

 

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

初学年者の心得、あるいは諸学年者への提言

 

 

そろそろ春が訪れようとしていますね。まだまだ寒い日が続いていますが、ちょっとづつ、春の香りがしてきたように思います。

 

新しい環境に身を置く人も多いと思います。当然その新しい環境に関する不安等も大きいはずです。なので今回は新しい環境に身を置く人の指針と成るような考え方を2つ紹介しようと思います。

 

①目的意識

②役割意識

 

①目的意識

目的意識は、「目的」を自分の達すべき最たるものと認識し、そのように行為する為の考え方です。別のいい方をすれば、自分と、短期なり長期なりの「目的」を統合するための考え方といってもいいと思います。

新しい環境に身を置くのであれば、当然それ相応の仕事の成果を期待されるわけです。その時に邪魔になるのはいらないプライド、失敗したら評価が落ちるのではないかという自意識、自分は無能なのではないかという疑念をすっぱり消し去る必要性があります。それを消し去るのに役に立つのは目的意識。何が「この場合のゴールで」「その為には何をどのようにすればいいのか」を粛々とこなす態度。それを行う機械に徹する。もちろんそこに感情が含まれてもいいです。だけど、それはその「目的」を達する事を欲する執念のようなもであってほしい。楽しい、嬉しいを基調とした感情群ではないことには留意してほしい。仕事は本来「他者のもの」を作る為のものですから。僕らが楽しむ為のもではないですから。で、それを達成するには、その「目的意識」を支えるその背後に潜む「究極の目的意識」が必要となる。それは、自分自身で探すしかない人生の目的です。目的の為には目的が必要。それを探すのが人生。究極には虚無が待ち構えていそうだけど、それと折り合いをつけるのも、人生。

 

②役割意識

役割は、「周りに期待されるものであり、自分で規定されるもの」という定義を自分の中で持っている。周りに期待されるとは、例えばマネージャーであれば、チームの人員のメンタルをしっかり把握しつつプロジェクトを進めて欲しいとか、新人ならとにかく頑張って早く戦力として使えるようになって欲しいとか、そういった、「周りから求められているもの」として、一面が規定される。これは質的な話である。

そしてその反面、「役割は自分で規定する」という側面を持つ。これは、量的な話であり、先の話とは相補的な関係にある。つまり、「周りからの期待という器の中に、どれほどの量を注ぐか(自己規定)」というのが役割意識の実態だ。

 

おわり。

 

 

 

 

 

 

いかにして人間は老害化するか、あるいはwikpediaのような心になるために。

 

 

人間長く生きていれば当然自分のバージョンと現実のバージョンが食い違ってくることは自然なことだと思う。その連中の中で、自己の見解の正しさを信じて疑わず、それが社会的に邪魔な存在として認定された存在を一般的に「老害」って僕らは呼ぶ。ちなみにグーグル先生は以下のように老害を定義している。

 

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ただ、老害って別に必ずしも年老いた連中に対してだけに使われる言葉じゃないよね。若くてもなんか頭が固くて自分の正しさを盲目に信じて疑わない人も僕は老害だと考える。

 

まぁ、全く珍しい存在ではないよね。ちょっと周りを見渡せば、

・サークルの下の代の方針にあれこれ口出しする先輩

・面白くないけど幅を利かせている大物芸人

・昔のやり方に固執する年寄り上司

 

etc・・・・

 

とかあげればいくらでもあがるよね。こんな感じで老害っていう存在はかなり一般的な存在だと感じる。

ここで、ちょっと例を挙げたものを帰納して僕なりの「老害」の定義を与えるとすれば、

 

「自己の内的確信と現実世界が食い違っているにも関わらず、それを否定する、もしくは無関心を貫き、自分の「確信」に固執する存在」

 

っていうことになると思う。

ここでいう「確信」っていうのは自分が世界に対してもっている「正しさの確信」のこと。

 

・人生の意味は愛である

・人類は自己の成長の完成を目指すことだ

・人類は本来平等であるのだ

・料理をみればその料理人の人生が見える

・個人個人を尊重するべきだ

・仕事は自分の為ではなく、他者の為にあるものだ 

 

みたいな。ね。その人にとって、その人が自分自身の経験と考察から生み出した「正しさ」、それがここでいっている「確信」の意味だ。

で、僕はまさにこの「確信」こそが老害老害たらしめている一大要素な気がしてならない。

 

じゃあ、その「確信」がどのようなプロセスで老害という現象に物象化されるのかをこれから説明するね。(物象化っていうのは、ある見えないものが、現実の形を帯びて目の前に現れる、みたいな理解をしてれればいいですよ。労働が物象化するとお金に変わる、みたいなね)

 

じゃあまず、僕らがどのように「確信」を構築するのかっていうプロセスから説明するね。

 

Q,僕らはどのように自分自身の「確信」を構築するのか

A,現実と自分自身とのフィードバック関係によってである。

 

僕らが何から「確信」を構築するかっていうと、それは経験からのみである。

それは外的経験でも内的経験でもいい。どっちかっていえば外的経験の方が効果は強いように思うけど。

で、その経験てどこから手に入るかというと、自分が世界に働きかける(=行為する)ことを通して得られるものである、と定義することが出来る。

 

・うんこは机の上にすると怒られる

・一度ならったことは復習するとより身に付く

・人を殴ると相手は怒る可能性が高い

 

みたいなね。それから人はそれらの対応の中で頻度が高く散見されるもっとも適切そうな対応を「確信」として構築することになる。うんこはトイレでするようにするし、復習の大事さに気づくし、他人とは出来るだけ平和に接するように学習する。

 

図にすると以下のような感じかな、

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まず、

①で自分は行為を行う事によって「現実」のリアクションを確認する。例えばテーブルにうんこをしてみる。

②で「父親から殴られる」というフィードバックを「経験」として現実から受け取る。

③なぜ自分は殴られたのかという「経験」を現実と鑑みて検証し、「よし次はベッドでうんこしよう!」と①の行為に戻る。

 

これを繰り返す中で、あるときからフィードバックで帰ってくる「経験」がほとんど変化しない状態が現れる。そして、それが「正しさ」として「確信」となってその人の中に蓄積する、ということが確信の構築の仕組みだと思う。

さっきの図に書き加えるなら以下のようになるだろう。

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よく巷でみかけるPDCAサイクルっていう概念と、ほとんど一緒だと思う。ただし、「確信」構築プロセスは大抵の場合無意識に行われるけど、PDCAは意識的に改善を行う際にもいられるという点で違いがあるということもできる。

 

じゃあ次にこのように手にした「確信」がどのようなプロセスで「老害」と認識されるのかを見ていく。分かりやすくするために、典型的な症例である老人と若者の図からこのプロセスを考えていく。

 

 

 その前にひとつ前提とてお話したいことがある。

さっき説明したとおり、「確信」は自分自身と現実のフィードバック関係、もしくは自分と現実のインタラクションの結果として、「経験」を通して獲得されるってことにしたよね。それって凄く単純化すると以下のような図に表される。

 

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これって要するになにを言いたいのかって言うと、「確信はその時の現実から自分が選択した適切そうなもの」っていうことであり、これって要するに自分よりも先に現実があり、そこから自分が選び取ったっていう明確な順序関係があるんだ。

 

①現実がある

②自分はそこから適切そうなものを選びとった

 

というね。

じゃあちょっとこれをふまえて、お話を老人と若者の老害対立図に戻そう。

この2者が存在する間での老害の構造をシンプルに図にすると下のようになる。

 

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簡単に説明すると、老人は「過去の現実」とのインタラクションによって自分の確信を構築して、若者は「現在の現実」を元にして自分の確信を形作るっている。そのとき、老人は自分の持っている確信の形式と現在の確信の形式が異なるから、年長者の立場を利用した反応として、disを表明する。

 

典型的な「最近の若者はダメになった。それに世界もドンドン悪くなっている」となげくおじさんが若者と世界をdisっている図である。よく見かける光景だなと思う。こんな直接言わることは少ないかもだけれど。

 

でね、もうわかると思うんだけど、これがまさに

「自己の内的確信と現実世界が食い違っているにも関わらず、それを否定する、もしくは無関心を貫き、自分の「確信」に固執する存在」

としての老害であり、このようなプロセスによって生じる現象であるといえる。

 

じゃあ一つ考えなきゃいけないのは、この老害のdisっていうのは正当性を持つんですか?っていう点だと思う。それがもし正当性を持つなら、その意見を聞き入れたっていいじゃないの。

 

まぁもちろんそんな正当性は僕にはないように思うんだけどね。それはなんでかっていうとね、さっきの図をもう一度しようするけど、老人も若者も、どちらも「その時の現実」を元に確信を構築しているわけ。

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だ・か・ら、どちらも「そのときの現実」から自分の「確信」を構築したのだから、老人が自分の「過去の現実」を元につくった「確信」の尺度で「現在の現実」ないし、それから「確信」を導きだした若者をdisれるいわれはないわけ。

 

つまり、

①現実が先にある

②「確信」は現実から導きだされる

 

のだから、「過去の現実」より「現在の現実」は「いつも正しい」のであり、

そこから解釈された現在の「確信」の方が「正しい」のである。

 

 

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ただね、悲しいかな、最も厄介な老害っていうのは凄く真面目で勉強熱心な人が多いような気がする。それはおそらく、よく学習する人間程自分なりの「確信」をより強固に備えてしまうからだ。あの、学生運動を主導した連中もそうだったんでしょう。それに主張自体も完全に間違っていることはほとんどない。一部に真理を携えているから、その人が「間違っている」と糾弾することはできない。でもどこか古くさくて、カビの生えたような主張に聞こえてしまう。昨今日本企業の凋落が激しいが、一部に「この人々」が大きな影響を与えているように思う。生涯雇用という制度と相まって、「カビの生えた賢人」を意思決定の場に据えてしまったからだ。

 

ただし、今日の自由競争の社会において老害という存在がいる余地は多いに少なくなったように思われる。社会自体にお荷物を置いておく余裕が無くなってしまった。ただし、それと同時に矛盾するようだが老害化するのが極めて早い社会にもなってしまった。それはインターネットが代表するような通信技術の発達であり、時代が高速で進むようになってしまったからである。その中で「過去の確信」にとらわれる人は急激なスピードで「老害化」してしまうだろう。

 

これは僕の私見だが、これからの時代「閉じながら開く」という矛盾したスタンスを個々人が確立する必要に迫られると思う。

 

それは「情報を収集し、まとめる(確信をつくる)」、「あらたな事象の確認とともに「確信」を書き換える」ということだ。

 

これって極めてWikipedia的な心の持ちようだと思う。

この心を持つには、まず現象を捉える必要がある。そこに解釈を付け加えない。

かのダニエルカーネマンもいっていた通り。人間には直感的判断としてのシステム1と熟慮の上での判断のシステム2が存在しているが、これはどちらかといえばシステム2に近い。

まぁ実際にはちょっと違うんだけど、要するに、まずは現象出来事をしっかりと見るところから始めようぜって考え方だ。人間、意識しないとシステム1のように出来事と解釈を勝手に結びつけがちになってしまう。

でもそれだと「過去の確信」にもとづいた判断しか出来なくなってしまうリスクがある。だから、まずは現象をしっかりと観察して、そこでどのような構造を持つのか、結果が得られたのかを認識し、そこから得られる「新しい確信」を模索する必要がある。そして、発見した新しい確信をもとに、「新しい人生を始める必要がある」

 

現実はいつもそこにあるだけだ。間違っている間違っていないていうお話じゃない。

新しいものは全てそうあるだけなのだ。それが間違っているか間違っていないかのお話じゃない。

 

 

いい加減書くのに疲れましたが、

 

僕、今まで確信という言葉を随分ネガティブな文脈で使って来たから悪いように思われるかもしれないけど、そんなことないです。寧ろ「確信」は自分が自分の人生を生きる上で極めて重要なファクターだと理解している。人生は幸か不幸か自分自身で意味付けを行っていく必要があるので、確信はその土台となってくれる大切で愛おしいものだ。

 

だけど一点留意点があるとすれば、これからの時代、その土台を崩す必要に迫られるかもしれないということだ。しかもかなりのペースでね。

 

 

うぃ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閉じる事と開く事を両立しないといけない。

もしくは、まとめることと付け加えることを同時に行わなければならない。